國造グループ物語

国造とは、大和朝廷時代に各地方で国づくりを牽引したリーダーのこと。

かつて、能登の国造が置かれ栄えた中能登地区。
今はすっかり元気をなくしてしまった故郷を再び活気づけるという大きな夢をかなえるため、
一人の男が立ち上がりました。
次々と現れる壁、幾度もの挫折。その中でも、志を同じくする人との出会いから新たな夢が生まれ、互いのビジョンが重なり合い、やがて一つの和になって、國造グループは形づくられていきました。
その和は今、さらに大きくなろうとしています。めざすのは、現代の国造。
能登のため、いしかわのためにまい進します。

第1節(1966~1999年)
石川整肢学園での日々。1級建築士への道のり。

能登半島、羽咋郡。田園風景が残る静かな地域で、塗装工事業を営む父母の元に石村高志は生まれました。小学2年生の頃、関節の不調から歩くことさえままならない状態になり、石川整肢学園へ入園。そこで障がいを持った子どもたちと一緒に生活を送りました。

幸い病状は好転し、学園での生活はほどなく終わりを告げます。
しかしこの時、ハンディキャップを持つ人たちと触れ合った経験が、後に石村の人生に影響を与えることになるとは、家族はもとより本人さえ思ってもいませんでした。

高校卒後の進路として選んだのは、父が経営する石村建設への入社。東京の大学から届いた合格通知はただの紙切れになってしまいました。

それから2年間、がむしゃらに働きました。しかしある時、自分の〝退化〟に気づきます。メモをとるため久しぶりに鉛筆を握ったとき、漢字が思い浮かず手が止まってしまったのです。「何も考えず、ただ体を動かすだけでは自分に将来はない」。すぐに1級建築士という目標を立て、専門学校に入学。20歳で再び学生になりました。

第2章(2000~2004)
父の跡を継ぎ法人化。(株)イシケン創業。

専門学校卒業後、石村は家業を手伝いながら29歳で念願の一級建築士試験に合格。同時に「後は頼む」という父から会社を受け継ぎ、平成12年、有限会社イシケンとして法人化しました。思えば頼まれたら断れない性分は、すでにこの頃から始まっていたよう。さらに平成15年、株式会社に改組。住宅の設計・施工を中心に順調な経営を続けました。

経営者となった石村は、地元志賀町の商工会青年部長や石川県商工会青年部連合会の副会長としても活動。もちろんこれも頼まれて断れなかったことが始まりですが、地域活性に取り組むうちに知識や見聞が広がり、「地域貢献」という視点が自然と身に付いていきました。

第3章(2005~2011)
地域のために。デイサービス 歩っ歩 設立。

高齢化が加速する能登で、福祉や介護は差し迫った問題でした。お年寄りたちは、ずっとわが家に住み続けたいと願っているにも関わらず、サポートする施設がない。そんな声を聞いた石村は、いても立ってもいられず行政に掛け合います。しかし、返ってきた答えは「対応する予定はない」のひと言でした。

「これでは地域の活力が失われてしまう」。かねてから、一人また一人と故郷を離れていく現状を憂いていたこともあり、自ら在宅高齢者のサポート施設を立ち上げることを決意。その際、頭をよぎったのが、子ども時代の一時期を共にすごし、ずっと交流を続けてきた石川整肢学園の仲間のことでした。

「ハンディキャップを持った人が働ける場所をつくってほしい」。彼らの願いにまたしても石村は、頼まれたら断われない性分を発揮。平成17年、老人福祉施設にスタッフとして障がい者を雇用したデイサービスセンター 歩っ歩 をオープンさせました。その後、歩っ歩は居宅介護支援事業所となり、在宅介護のサポート施設として地域の暮らしを支えています。

第4章(2012)
能登暮らしの原点。農業への参入。

「これ以上人が減り、耕作放棄地が増えれば、建設業の行く末と地域の未来はどうなってしまうのか」。経営者として能登を愛する者として石村が導き出した答えは、昔のように自給自足ができる自立した地域をつくることでした。

「地方の新しい仕組みづくりに必要なのは、仕事と人をつくること」。そう考えた石村は、平成24年、株式会社イシケンの農業部門として合同会社菜夢来を設立。耕作放棄地を活用し、本格的に農業を開始しました。

自社を「國造グループ」と名付けたのもこの頃。

建築、福祉、農業と人が生活する上で必要な事業を多角的に展開して自立した地域をつくり、その取り組みを全国に広げることで日本を元気にできれば。そんな思いからでした

第5章(2013~2015)
ころ柿の製法を継承。海外にも販路拡大。

肥沃な大地でさまざまな農業物が収穫できる能登は、農産物を使った特産品がとても多彩な地域です。しかし、人口減少や高齢化によりたつくり手が年々減少し、姿を消す品も現れはじめました。

地元の特産品「ころ柿」の特許製法を持つ治郎堂幸露柿も担い手不足に悩まされていると知った石村はすぐに製造元を訪問。平成25年、事業譲渡を受ける形で食品加工業の営業も開始しました。

大きくて甘い干し柿「ころ柿」。その中でも、特別な製法による雑味がなく上品な甘さとツヤのある美しさで都市圏でも高い人気を得ていた治郎堂幸露柿。菜夢来では、その味は守りながら、より生産効率を上げるため乾燥など一部の工程を機械化。商品開発にも力を入れ、あんぽ柿(干し柿)のシャーベットなど次々とヒット商品を生みだしています。

平成27年には、経済産業省が日本のふるさと名物500点を選定する「The Wonder 500」に選ばれ、海外への販売も現実のものとなりました。

第6章(2016~)
未来を担う人を育てる。登夢高等学院開校。

人口の減少は、地域で暮らす子どもたちにも大きな影を落としています。高校受験を迎えると、生徒たちの多くが大学進学や就職を考えて金沢をはじめ近県の学校を志望し、能登を後にします。地元の高校は定員割れが続いているというのになす術がなく、町の人はただ、存続を祈るしかありません。

そんな状況に、また石村が動きました。和歌山県の慶風高等学校のサポート校として、通信制高校 登夢高等学院を開校したのです。生徒は、國造グループの社員として働きながら学ぶことができ、建築業や農業、干し柿づくりのノウハウも習得できます。また、県外からの学生も積極的に受け入れ、将来的には日本各地で自立した地域づくりを牽引する存在になれるよう実践的な指導を行っています。

身近な人々の声に背中を押され、道なき道を走ってきました。

ゴールは遙か彼方ですが、石村の後ろには1本の道ができていました。

國造グループはこれからも時代にあわせて柔軟に形を変えながら、誰もがずっと安心して暮らせる故郷をつくっていきます。

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